がまんをへらしてたのしくいきる

わたしのフェミニズム わたしに生まれたことをたのしむ

■妻の役をやめる

やりたくないことをやめるキャンペーン。

妻の役をやめるの巻。

 

結婚してからやりたくなくてやめたこと。

 

夫の朝食つくる。

夫と一緒に住む。

 

最近、やめたいと思っていたことが、夫に夕食をつくること、でした。

 

夫に夕食をつくるのをやめたらどうなりそうか?

 

献立考えるのが減る

料理の手間が減る

買い物が減る

お金が減る

夫とかかわる時間が減る

夫の健康が減るかも

 

自分の時間が増える

自分の頭の余裕が増える

自分の心の余裕が増える

 

思いつくのはこのくらい。

お金が減る、がいちばん引っかかりました。

お金を理由にやりたくないことをやってるってあるある。これを乗り越えてやめる‼

 

お金が減ってもいい。

夫に夕食を作らなくていい。

 

そして、夫に相談しました。

夕食作るのやめたいんだけど、そのかわりに夕食どうしたいか聞いてみたら、その分のお金をくれたらいいということだったのでお金で解決。とりあえず、試しに来週から2月末まで平日の夕食作りはナシになりました。

 

ひとまず自分の感想は、やった~‼という喜びと負担から解放されて身体の力がふーっと抜けました。わたしつらかったんだなぁとわかりました。

 

これで来週からやめてみて自分が何を感じるか?楽しみ~。

■苦手な人、めんどくさい人がいる

自分に落ち度があって人間関係がうまくいかないのかも~、どうしよ~、何が悪かったかなぁ~というクヨクヨ考える癖があった頃に比べて、苦手な人とかめんどくさい人が自分のまわりにいなくなったな~、楽になったな~なんて思っていたら、現れてしまいました。

 

かかわるとちょっとウッて自分が反応する人が、、、。昔だったらただ嫌だな~で終わるところだけど、いまは自分の何が反応したんだろう?これはネタになる~♪とおもしろがれるようになりました。

 

その人とは電話で1回、対面で1回かかわったんだけど、わたしのささいな言動、ささいな行動に対して「こういうときはこうしてください」とその人のやり方をツンケンした口調で後から押しつけてくるんだよね。

 

わたしはその人に何て言いたいのかな~?と探ると

 

「だったらいちばん最初にどうしてほしいのか言え‼」

「知ったこっちゃねーわ‼」

「こっちはそっちのペースで生きてねーわ‼」

 

とまず怒りの声。これ本人の前では言わないやつで、瞬時に飲み込む本音じゃないやつ。自分の内側では、わりと罵声が響くことがあります。笑。

 

どうしてこんな気持ちになるのか、どんなふうに扱われた気がして怒りがわくのか?

 

間違っていると否定されている気がして怒りがわく、と。

 

わたしは、相手にどうしてほしいのか?

 

「その人が相手にしてほしいやり方があるなら、教えてくれないとわたしにはわからないから、いちばん最初に伝えてほしい。」

↑これがわたしが本当に言いたかったこと。

 

その場だと驚いたり怖かったり嫌だったりして固まっちゃって言葉が出てこなくて、本当に言いたい本音にたどり着けないんだよね。

その場ですぐに言えるようになりたいんだけどなかなか難しい。

 

わたしは、本音を伝えて信頼関係を築きたい相手なのか、そうじゃないのか見極めて、大切な相手にはあとからでも本音を伝えるようにしています。

 

今回の相手は、わたしにとって大切な相手ではないので、本音を確認して終わり。

■この人、大丈夫かな?と不安を感じる

おはようございます。

 

昨日は、講座を開催したのですが、時間配分が自分の予想とずれて、時間が余りそう~、どうしよ~と焦ってしまい、迷いと不安と自信のなさに取りつかれて、講師のこういう空気って場に影響するよね~、平気なふりして進めても人って察する能力あるよね~、バレてるよね~、でもどうにもなら~ん、困った~、と頭ぐるぐる落ちつかない状態でした。

 

わたしは、何を恐れていたのかな?と自分と向き合ってみると

 

みんなにがっかりされたくない

みんなに不安を与えたくない

 

というのが出てきて

それは裏を返すと

 

みんなに満足してほしい

みんなに安心を与えたい

 

という自分の望みがありました。

 

がっかりされたくない、不安を与えたくないと恐れに取りつかれた自分と

満足してほしい、安心を与えたいと望む自分と

 

どちらも軸が自分じゃなくて他人になってたyoー‼チーン。そりゃぶれるわ~。

 

わたしはどうしたいんだ?

わたしはどうしたいんだ?

 

わーたーしーはー?

 

どんな自分もここにいていいよ、どんな自分もやりたいことやっていいよ、というメッセージを伝えたい

 

でした。

 

そのためには、どんな自分もさらしながら、自分と向き合って整えて自分のやりたいことを確認しながら、ひとつひとつ挑戦していけばいいね。

 

みんなやさしいよ

 

という言葉をある方からいただき、心にそよ風が吹きました。ありがとうございます。

 

 

■できる自分から逃げていたのかも

おはようございます。

 

明日はわたしが講師をしている「がまんをへらしてたのしく生きる講座」2回目です‼

わくわくどきどき楽しみにしています。

 

仕事をするのが楽しい。

人と関わるのが楽しい。

人前で話すのが楽しい。

 

これがいまのわたし。

 

好きな仕事をして好きな服装で好きな時間に好きな場所で、、、。信じられんっ‼

 

仕事をするのが苦しい。

人と関わるのがつらい。

人前で話すのが吐きそう。

 

苦手な仕事をして決められた格好をして決められた時間に決められた場所で、、、窮屈でたまらなかったあの頃のわたしがいまのわたしを見たら「おまえみたいなやつがそんなことして許されると思っているのか‼怒」と嫉妬して大バッシングしたことでしょう。

 

そういう働き方を許されるのはごく一部の有能な人達で、能力のないわたしは、数少ない求人の中から(就職氷河期だったしね)仕方なく選んで、雇われたことに感謝して、買ってでも苦労して、100%以上の力を出して、できないわからないは禁句で自分で勉強して、文句を言わず、弱音を吐かず、体調悪くても休まず、会社のために頑張らなければいけない、、、と勝手に思い込んでいたのでね。

 

まぁー読んでて自分で気の毒になるわ。

やめよー、やめよー、そんなの。

 

わたしは、能力がなかったわけじゃなくて、自分の特性と合わない環境にいて、自分の能力をのびのび発揮できなかっただけ。

 

誰でも自分の特性に沿って人生の選択ができれば、楽に楽しく生きられる人が増えていくよね。それこそ世界平和につながる。

 

だけど、どちらかというと日本の教育、自己啓発、心理学、コーチングなどの多くは、社会の構造に都合のよい人間をつくるために個人を変えていくよね。身体がノーとサインを出しているのに、薬を飲ませてまで社会の構造に適応させていくよね。

 

個人に問題があるのではなくて、その人はそのままで問題なくて、この社会のあり方のほうが障壁。

 

わたしがやりたいのは、社会に適応させていくようなカウンセリングじゃなくて、適応しすぎた個人をもとに戻していくカウンセリング。そして、もとに戻ったその個人が特性を生かして発揮できる社会の仕組みをつくること。そのために個人にも政治にも関わっていきたいと思っています。

 

では明日、みなさまにお会いできるのを楽しみにしています。

■なぜ母は過干渉になるのか?

 

上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!

上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!

  • 作者:上野 千鶴子,田房 永子
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2020/01/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

この本を読みました。

 

過干渉の毒母との関係に苦しみ、フェミニズムに出会ったロスジェネ世代の田房永子さんと規格外の女の人生を生きる上野千鶴子さんの本です。

 

わたしがフェミニズムを知って良かったこと、そしてまだフェミニズムを知らない人に知ってほしいと思う理由のひとつは「個人を責めなくてよくなるから」です。

 

フェミニズムを知る前のわたしは、自分の母親を悪者にして責めていたのですが、これまで日本の女性が置かれてきた社会構造の歴史、文化、法律などを知って大きく社会的な視点で見直してみると、こんな中で生きてきた母の歪みも理解できて、母のことも自分のことも責められなくなりました。

 

個人を責めて追い詰めるのはきつすぎる。

フェミニズムを知らない人が言う自己責任論は疑う。

 

過干渉のエネルギーは自分の子どもに向けてやるんじゃなくて、この国の政治に向けてやったら、フィンランドで実現できたことが日本でも実現できるのではないか?

 

まだまだ知りたい。わかりたい。考えたい。

■よく見られたいと思ってやっていたことをやめる

運転免許証の書き換えに行きました。

 

運転免許証の写真うつりを良くしたい‼って、書き換えの度に思っていたんですよね。

それで、ヘアメイク、ファッションに力を入れて今回こそは良くうつるぞ‼と。

そして、毎回自分が期待するようにはうつっていないという結果。

 

そして今回、写真うつりを良くするために自分を整えるのをやめました。

コンタクトレンズつけるのも、メイクするのもきちんとした服を着るのもめんどくさい。

眼鏡でノーメイクで寝癖だけ直して普段着。

がんばらない。

 

仕上がりはいつも見ている素の自分がそこにいました。それは良くうつりたいと期待して良くうつらなかったときの自分とほぼ同じ顔。あーどうあがいてもこれがわたしの顔面なんだなぁとやっと自分を認められた気がします。

 

自分を良く見せようとするのをやめてみてわかったことは、良く見せたくてがんばっても、がんばらなくてもほぼ同じところに着地するし、良く見せたくてがんばっててももともとの自分はバレバレである。

 

わたしはこのままのわたしを愛する。